link-55’s blog

様々な出来事や感じた事を書きます!!想いを文字に…

会社をやめる。

会社を辞めたい。そう思うことは悪い事では無い。

この文は独立を考えている人、仕事を変えたい人。

でも、中々決断に至らない人と気持ちを共有出来たらと思う。。

 

会社を辞めたい。。

理由は各々あると思う。

やりたい事がある。自分でやってみたい。

違う世界をみたい。違うと思った。

 

辞めたい気持ちはあるでも辞められない。

何故か。↓

生活があるから。会社を辞めたら自分が困る、

リスクを取れない。

不安だから。

色々な理由があって決断できない。

もっと言えば何かしたいと打ち明けた時会社の人に、周りの人にその決断に不安要素を言われた等。

お前にはできない。失敗する。

そんな事を言われたら普通怖くなるし、やってみよう。というその気持ちを自分で抑えてしまう。

結果的に勇気が出ない。

ある意味これに間違い無いですよね。

それはそうだろう。

誰でも不安に思うことははある、失敗したらどうしよう。できなかったらどうしよう。

上司に無理だろうと笑われた。

誰の人生・・・❓❓

自分の人生だという事を明確にわかった方がある意味次が見やすい。

何をするのも最終決断は自分で決めてやってきたはず、

要は人の言うことは判断材料と割り切った方が自分の気持ちを行動に移しやすい

自分の中での理想とはどのラインなのか、アドバイスをしてくれる人は自分の理想の位置に居るのか。

独立を図る人はきっと会社からできないだろ、絶対に無理だ。と言われた人も多いはず。

その上司は何故会社にいるのかを考えて見るべき。

t直接聞くのも良いかもしれない。

その答えが理解に至るのならば、上司の意見も聞いていいかもしれない

理解に至らない。それはあんたの立場ならね、いやそうは思はないと感じるのであれば

自分の価値観を大切にすることもあり。

やるからには覚悟決めて踏み出す人、踏み出さない人、やる必要のない人。

人それぞれだが、今まで一生懸命やってきた事を自分でやりたいと思えるなら、そこを目指していたのなら、誰に何言われても挑戦するべきことだと思う。

 

踏み出した人が自分の理想になっていることも多いはず。

なりたい、やりたいならそのことに身を注いで覚悟を決めることで見えてくるものもあると思う。

会社に居続ける事で見えないものもあると私は思う。

自分の求める答えを見ようとするかまたは諦めるか。自由ではあるが、

折角持てた夢。使ってきた貴重な時間を会社の為にではなく本当の意味での自分の為に使う事をやって行こうと行動している。

人生は一度きり。

自分の人生を。自分の求めるものを追う。

 

 

人間とは難しい。My whim.No5

人間とは難しい。人間関係とは難しい。

人によって様々な感情がある。時に感情とは人と人を強く結ぶ物。

時には人と人を切りさく物。

 

私はよく人の事を理解出来ない事がある。

自分の思想と違う思想を持った人が沢山居ることは理解している。

これは、自分の思うようにならないからという意味ではない。

勿論全ての人を理解したいわけでもない。むしろ、私には出来ない。

自分が思う事の逆を思う人もいれば同じ様に感じ、考える人もいる

そんな当たり前のことを感じているわけではない。

では、なにが言いたいのか。。。

自分と違う感受性を持つ人に対して私は、

「この人はこう感じているのか」「こんな考え方もあるのか」

この様に相手を理解しようとする気持ちが重要だと思う。

そんなの当たり前だろ、と。。よく思われる。

だが、実際の所どうか。

違った考えや、感受性を持つ人間に対してそう考えることが出来ない事の方が多いと私は思う。

自分の中だけで考え理解に至ることはそれ程難しい事ではないが、いざ対立関係にある人と向き合った時。

果たしてどれ程の人が自分の意見を言った上で相手の意見に耳を傾けられるだろうか。

人間誰しも湧き出た感情を押し殺す事は大変だ。想いが強ければ強い程に。

更に、私は日本に生まれて普段何気無く日本語を話しているが、この「日本語」とは改めて考えると難しいと感じる。

声のトーン、質、要するに言い方。同じ単語を言っていても変わってくる。だからこそ、会話をする時文の構成やあと一言。これがとても大切。

それが自分とは違った意見を述べる人との会話の時は尚更に。

自分はそういうつもりではない時でも自分の言い方や相手の捉え方で互いに傷つき誤解を招く。

素直になれたら、少しでも違った言葉を言えていたら、あと一言言えていたら変わっていたとよく後悔する。

大切に思う人を自らが言えなかった一言で傷つけ悩ませていたと知った時、その時の自分を理解出来なくなる。

私は深く考え過ぎてしまう、誰かが言っていた。

「原理原則に逆らう事は自分を追い込むだけ。原理原則に逆らわず受け入れよう。」

これさえできれば気持ちの持ちようが変わってくるだろう。

心に余裕を持つことができれば心は広くなる、

心を広く持つ事さえできれば相手を受け入れられる事が増えるだろう。

大切なものを自ら遠ざけないために、難しい事ではあるがやっていこう。

 

 

 

歌の良さ My whim NO.4

私は音楽を聴く事がとても好きだ。
今回は私なりの感じ方で曲、歌に対する良さ書こうと思う。
私にとって音楽、曲というものは気分を変えてくれる、
毎日に必要不可欠なものになっている。
音があるかないかでだいぶ気持ちの持ちようが違うように思える。

例えば旅行に行く時や仲間との時間に洋楽などのアップテンポな曲を聞いたりすると浮かれた気持ちになれて楽しさが増すように感じる。
同じような気持ちになる人も多いと思う。

私は主に日本の歌を聴いていて人の感情などを歌った曲が好みだ。
歌の歌詞を見て聴いて共感出来る事があった時すごく惹かれる。
共感出来ると感じた曲の中でよくあるバラード系の歌では作詞をした人も、
今の自分とその時のその人は同じような気持ちだったのか。などと考えたりもする。
時には思い悩んでいる事を解決に導いてくれて心を救われる思いなんて事もある。

注意深く歌詞の意味を意識して聴いてみるとたまに比喩表現の様な、どういう意味なのかと、言っている言葉単体の意味はわかっても私の脳内では聴いただけでは理解に至るまで時間がかかる時もあるが、不思議に思っていろいろな想像を膨らませて理解できた時又は調べて知った時、より一層その歌に対しての愛着が湧く。

歌といえば歌詞があって曲、メロディーがある。
当たり前だがとても重要だ。
自分にとってとても心に響く歌詞でその歌詞にあったメロディーは歌詞を更に良く聴こえさせてくれる。
又、年月が経つに連れて聴く音楽が変わっていたりする事があると思うが、
私に関しては小、中学生の頃聴いていた音楽を成人を超えた今聴くと、その頃の様々な出来事や思い出だったり更にはその時の光景などを鮮明に思い出させてくれる。
懐かしさを感じて聴き入ってしまうほどに。

これも自論だが、最近の歌より少し昔の歌の方が私の心にはよく響く。
平成産まれの私は昔の歌を語れるほど知ってはいないが90年代の歌や2000年近くの歌は、その歌の意味を歌手の情熱の様なものが伝えてくれる感覚が聴いていて伝わる。
アーティストが人の感情を聴く人の耳にではなく心に届ける様な感覚…
映像などを見ていると尚更そう感じる。


今の歌が嫌いなわけではない。私が気付けていない良い歌がたくさんあると思う。
だがなんとなく、映像をみていて歌詞メロディーと言うよりテンポであったり踊りであったり外見であったり、カッコいい。可愛い。一緒に踊れる。テンションが上がる。もちろん聴く人にとって気分を変えてくれる。いい事であるが重点を見た目においている様にも感じる…
こだわるにはこだわるなりの理由というものがあるのだろう。
あくまで私個人の感覚の事である…

今も昔も変わらず人の気分や感情を高めてくれたり救ってくれたり出来る音楽は大変素晴らしいと思う。

そんな感じの私の気まぐれでした。

大谷翔平選手 whimNO.3

何気なく見ていた野球の記事やニュース。

度々目にする選手の大谷翔平選手について個人的に感じたことを書こうと思う。

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二刀流と投打にして素晴らしい功績を残しているのは明確。

"生まれ持った才能"

それは間違いなくあるであろう

体格の良さであったり柔軟さであったりと。

私も10年近い前は野球というスポーツに真剣に取り組んでいた。

期間は10年ほどと短い期間ではあったが、

硬式クラブチームに入ったりそれこそ日々を野球に費やしていた時期があった。

だからこそ大谷翔平選手のプレーヤーとしての凄さというものはとても理解に至る。

まず高校時代の球速160キロ…

これは正直どうしたらそうなるのかわからないレベルだと感じる。

私が幼い頃良く見ていたビデオの中で横浜高校PL学園の試合で松坂大輔投手が高校時代に150キロととてつもなく速いストレートを投げていた事をよく覚えている。

私はその試合の実況で松坂大輔投手が150キロを投げた時の実況者の声のトーンを未だに覚えている。

当然、150キロという速度は怪物級であって並の人間に成せる速度ではないと思う。

その速度を10キロも上回る大谷翔平選手は一体何者かと…

才能…天性のモノ…そんな話をよく耳にしなくは無いがそこに至るまでの努力が想像を超えているのだろうと感じる。

健康管理はもちろん、日々酷使している筋肉等を柔軟に保つ為のケア…

野球というスポーツをやった人ならば一度は思った事のある疑問…

それはなぜマラソン選手でも無いのにこんなに走る。なぜボディービルダーではないのにこんなウエイトトレーニングを重ねる…

根性論や色々な観点において必要な事それはわかるがこんなに…か?と。

ボールなんて。グローブやバットなんて一回も触らずにただひたすらに山を走ったり室内でのウエイトであったりと。そんな日もあった、

ただひたすらきつい…

野球というスポーツに心からの想いが無ければできるはずのないきつさである。

そんな練習の日々を乗り越えて行く人達が大勢いる選手達の中注目を浴びる選手になるには、やはり才能も必要不可欠なものである。それと同時に同等の想いや、その大勢に勝る日々何年もの努力の結晶がこの様な選手を作り上げて行くものだと感じる。

速い球を投げれるから。ホームランやヒットを多く打つから。もちろん凄いと感じるし憧れる気持ちもある。

だが、同じスポーツを経験していた身として純粋に今まで培ってきた'日々の努力'は、

才能と同等に尊敬すべき観点だと思う。

冬になると楽しみが増える whim NO.2

寒い…そう感じる季節になりましたね!!

 

夏が好きと言う方は結構多い気もしないでもない。現に私の身近な人達は夏が大好きだ。

夏と言えば、BBQ!お祭り!海!花火!だっ。と、夏の暑さと比例するかの如く世間のテンションも高いように感じます。

毎週の様に海沿いの道は混み、お店などに入ると虫の採取道具や、BBQセットなど、浮き輪なんかがデカデカと飾られているお店も良く目についたもの。

今年の夏も周りの友人達は4.5月くらいから夏が待ち遠しい気持ちが先走って7.8月で使う物をネットショッピングや店舗などで様々なものを用意していた。

早く使いたい!着たい!といった気持ちが込み上げたのだろう、手元に来たら即座に開封して試着や実際に組んでみたりと用意周到というよりはシンプルに待ちきれないのだろうなと感じた事を鮮明に覚えている。相当楽しみにしているんだなと、微笑ましい事である。

そんな感じで迎えた夏最初の予定はなんと、ジェットであった。。。

海の上をバイクの様な乗り物に乗って進む。

イメージはそんな様なものだ

怖いか怖くないかと聞かれたら怖くはなかった。

10代の頃はバイクにも乗っていたというのもあり、少々興味はあって乗せて貰う事にした。

実際に乗ってみての感想はまず楽しいと感じた、

波の状態によってすごく高く跳ねた様に感じたり何と言ってもスピード感…

どこまで続いてるんだろう〜なんて思っているとてつもなく広い海を今までの常識では考えられないスピードで駆け抜けていく…

太陽で光る水面や泳いで行こうとは思う事すらできない場所の景色、円を描く様にグルグルと回ったり。いいなぁこれとか思いつつふと思った事があった。

これガソリンで動いてるんでしょ?なくなったらどうするんだよ…

免許を自身が持っているわけではなく知識もあまりない私はそんな事に不安を感じた途端に

泳げなくはないが、その道のプロでもなければ海の事もあまりよく知らない、

この乗り物から落ちてしまったら…とか幼稚ながらサメが下にいるのかもとかを考えてしまい楽しい気持ちから少々不安な気持ちを抱いていた。そんな時に案の定海に落ちてしまった。

ライフジャケットをつける事がルールになっていてもちろんつけていた、そのおかげで普通に浮かんでは来たものの浜辺に近い海の水温とその場所の水温では全く別ものであった。

足が完全に届かない、下なんて見えるはずもないそんな水深の所で浮かんでると咄嗟に思考回路が巡ってしまい、サメのことやら色々な事で一刻も早く乗り物に乗りたい気持ちになった。

後になって思うがその様な時こそ冷静なるべきなのだろう、パニックにならない様に。

まあまずそんな事は考えていられないくらい乗り物に乗る事に必死になっていた。

何事もなく浜辺へ戻った私は乗った時に感じた美しい景色や体感、そんな事忘れて良かったサメいなくて、、と安心した限りであった。

その日を終えて帰ってみると足や顔が真っ赤に日焼けをしていた。もちろんクリームなどは塗ってはいたのだが…

その痛みや熱さ、夏ならではの海。

無知なゆえ満喫とは言えない今年の夏であった。

そんなこんなで迎えたウィンターシーズン。

私の産まれた月は冬、関係があるかはわからないが冬が好きだ。寒いのは確かである。

冬に食べる食べ物の美味しさや、家の暖かさ、澄んだ景色、匂い、雰囲気。なぜかはわからないが好きだ。

そして何よりウィンタースポーツ!スノーボード

決して上手と言えはしないがとても楽しいと感じる、昨年は長野県や新潟県色々な所に行った、相変わらず楽しい。

ゲレンデの高い所から眺める景色によく感動している…

そして今年の冬は友人達と北海道へ旅行に行く。

友人はマリンスポーツもウィンタースポーツも大好きなアウトドアや方々で、みんなして待ち遠しい気持ちになっている。

夏に感じていた友人の待ち遠しい気持ちをわかった気がしている。

北海道ならではのものも体験、経験できたらより一層思い出になると楽しみな気持ちでいっぱいである。

もし、この気まぐれな文章を読んでくれた方で北海道のオススメ等があったら是非とも教えて頂きたい所であります。

My whim!NO.1

インターネットという物が欠かせない存在になった今時、

日々の出来事や感じた事、様々な事をインターネットを通じて発信し合っている。

そんな人々の具体的な出来事や感じ方を見て自分も、経験したい!楽しそう!等等…


何気なく触っているPCやスマートフォンで手軽に新しい発見や興味を探る事ができる、自分で足を運ばずとも、他人の経験や感じた事を画像や文字を交えてインターネットにのせている事で、見る人が自らの観点で想像を膨らませ行動する事ができる…

とても便利で有効的。なんとも素晴らしい。


話は全く別物に変わりますが、

人には互いが互いを理解し合うという事が難しい、又は出来ない場合も多々あると思いませんか?

勿論、逆もあるので一概にとは言えません。

私はそう感じている。

なぜそう思うかは単純に、

普段身の周りでそう感じる事があるからだろう。

例えば→(会社にいる時、友人と一緒にいる時、恋人といる時、他にもテレビを見ている時、電車等の交通機関やレストラン等で他人の会話を聞いた時、)

色々な場面で同じ様に感じた事のある人は少なくはないのではないだろうか…


そんな世の中を観ていてふと思った事があるあまりに単純で当たり前とも言えるような事ではあるが、


"自分自身の人生で会話を交えたり少しでもお互いを知る、そう言う意味での"出会える人数は多くはない"

という事。


ですが、

私は出会えた人達の中で幸運にも、そこに居たい、身内とも互いに思い合っている輪というモノを築きあげる事が出来た。それこそ何年も何年も時間をかけてではあるが、、

そこ(輪)では沢山の思い出や出来事、本当に様々な事を共に経験してきた、私にとってかけがえのない人達だ。

楽しみや苦しみは勿論、嬉しさや悲しさ、

命の尊さという事でさえ共に経験をした。

物心着いた時から数えて1から10まで共に過ごした人達とでさえ、理解できない時がある。だから私はそう感じるのだろう。


世の中に人は何人いるか。

正確に言うなら世の中に自分の意見、思考、感覚等を理解し合える人が何人いるのだろうか

これもまた全てを理解すると言う意味ではない。

一つ一つの観点において。そういう意味で。


出会える人に限界があるならば、

知らない事が無いくらいの仲でも理解し合えない事があるならば、

なぜ相手の思考がわからないのか、なぜ自分の思考は相手に伝わらないのか、

その気持ちはどうすればいいか。

この様に感じた経験はないだろうか、

あてようのないモヤモヤ感

人と違う事で"ズレ"を感じてしまう事や

自分がおかしいのかと感じる瞬間

『誰か共感できる人はいないものか』等と思う時が私にはある。

身の周りの誰もが自分と同じ様な感受性を持っている、

そんなはずもない事は分かりきっている。

考え方は理解できる、だが感じ方は違う感じ方をする。又はその逆であったりと。

言葉一つ、行動一つ見て聞いて感じる答えという物はまさに"十人十色"であろう。


そんな時にインターネットほど様々な方と繋がる事ができ、自分と同じような境遇の人を探す手段はこの上ないのではないだろうか。

例えば10人中10人がわからないと言った事でも、100人1000人と数が増えれば答えも増えるのでしょう。

同じように感じてる人を見つける事で、少しでも心が救われる想いを感じる事というのはあると思う。


"普通"とはなんだろうか…

何気ない会話の中によく目にする言葉ではあるが、私はこれを難しいと感じる。

つい先日"普通"と言う言葉でズレを強く感じてしまった。

大事な関係になればなるほど相手の普通と自分の普通のズレを感じてしまい、正直ストレスも感じた。

異性との事である。

自分にとっては普通ではない事が相手にとっては普通だった時、どうすれば良いのか…

素直に合わせられる事ならば合わせたい。

普通とはその人が普段何も気にせず勝手にやっている事と言っても過言ではない事だとしたら、

相手からして普通じゃないと感じてる事にすら気づいていない、自分も気づけない場合があるのではないか。

そもそも普通の基準が人によって違うのなら共有するのは難しい事であろう

とくに異性との関係では尚更難しく感じてしまう。

相手に合わせようとしても普通の事をしているときにそれがその時普通じゃないと気づけない。

悪気はないが相手にはそれが不快に感じる事もある。

それが例えば言葉遣いだったり捉え方だったりと…

お互いの普通の基準のズレが些細なストレスとなりやがて大きな感情を生む、それらが衝突する事で揉め事等があるのだろう。

そう考えるとすると、揉め事というのは避けられない事なのかもしれない。


ここでまた一つ思った事があった。

"揉め事"というのはどうしても少しマイナスなイメージになってしまう、それは仕方のない事。

だが、揉めた事を教訓に次に生かす事ができるのならばそれはマイナス要素からプラス要素へと変わると思う。

口で言うほど簡単な事ではない、冷静な時に考えればわかることも感情が溢れてる時や乱れている時、

勢い余ってしまう事も多々あり得る事だと私は思うからである。

もしそれが壁と例えるならその壁を曖昧にせず超えられる関係は素敵だなと感じる、

より強く、あたたかい絆が生まれていくのだろう。極論冷静さを保つ事は想いが大きい程に難しく、

『感情とは難しいモノだな』と再度痛感した。


そんなこんなで私のwhim(気まぐれ)第1号

でした。